夫婦茶碗(その1)

朋子は番茶を一口すすりため息をついた
朝、食事の支度を手早く済ませると
ほっと一息つく
15年前に北原家に嫁いでからついた習慣

謙蔵と朋子はひと回り違いの未年同士
生き別れした元妻がいて
父親と小学生の男の子がひとりいた

男三人の暮らす家にとびこみ
朋子は夢中で働いた
物心つかぬ内に両親をなくし
叔父の家で、身を縮めるように暮らすのは
もう嫌だった

昔気質の父、正蔵の好みに合わせた食事を作り
なかなかなついてくれない、孝一の汚れた下着を洗う
商社に勤める謙蔵は仕事仕事で
毎日午前様だ

その内にやっと孝一が
「お母さん」と小さな声で呼び
朋子は嬉しさに 涙した

今は孝一も医学部に入学し
勉強に実習に苦労しながらも、張り切っている

さあそろそろ、皆を起こして
送り出さなくちゃ


変わりなく、時は過ぎていくだろうと
安心しかけた時、ある事は始まった

突然訪ねてきた中年の女
その時家にいた正蔵と朋子
正蔵は表情を固くして
追い返した
「中江滋子です」
その人は孝一の本当の母だった

その人のまなざしは
ギラギラしていた

それから攻撃は始まった

孝一の帰りが、以前より遅くなった

謙蔵は父から前妻が来た事を
知らされて、なにか落ち着きがなかった
朋子は何事もなかったように過ごした
例え、心の中に荒波が立っていようと

ベッドの上に脱ぎ捨てられた、孝一のジャケットのポケットから
中目黒の「メモリー」というスナックのマッチが見つかった

姑と折り合いが悪く、
その頃海外出張が多かった謙蔵の知らない内に
男を作って、孝一を置いて家を出たと夫から聞いた
ならば、この家に未練など持てる筋合いなどないはず

陰で、孝一を呼び出して会っている滋子を思うと
身体を流れる温かい血のつながりには、かなわないと
朋子は一人涙をながした

ようやくなついてくれた孝一の態度がぎこちなくなった

10年以上かけてようやく溶かした
孝一の頑なな心を
実母は瞬く間にこじ開けた
自分にはできないと思った

正蔵が持病の心臓の具合が悪くなり
入院した

正蔵の身の廻りの物を取りに家に戻った時
ドアホンが鳴った

きちんと着物を着た滋子が立っている
相変わらず目がギラギラしている

「あなたが朋子さん?私の留守の間に
謙蔵を手なずけた人ね。
孝一を大きくしてもらってありがとうございます。
でももう、すべてを返して頂きたいの。」
「わたしは、孝一さんの母として、当たり前の事をしただけです。
あなたにお礼を言われる筋合いではございません。」
「こちらには、もう来ないでください。
理由はあなた自身がよくおわかりのはずです。」
身体を押し出すように、玄関のドアをしめた。